昭和54年09月03日 朝の御理解
御理解 第48節
「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」
いよいよおかげが広く大きく、そして深く頂かして頂けれる信心の要諦というか、一つの機微のようなもの、そこんところを教えておられると思う。信心をいよいよ進めていくと言う事は、いよいよ神様を広く大きく信じれれる深く信じれれるという事。いよいよその神様を分からして頂く、勿論それには有り難い勿体ないという、いわゆる有り難い世界が限りなく広がっていく、しかも広がっていく深められていく。それにはね何時もがいわゆる四十八節でなからなきゃならない。
何時もがこういう心。自分の子供が病気をするまぁ大変ひどい、まぁ医者ももう難しいと言う程しのまぁ病気をしておると致しましてもです、そういう時にうろたえるような事ではおかげは受けられんと仰しゃつとられる。そういう時に例えば子供が「シンショウ」言うて言う事を聞かぬ時に、もうかまわんぞと、親でも子でもそういう心になる時があろうがと、「ならお母さん知らんよ」と言うような事があろうがと、いうならもうお母ん知らんよと言うような時があろうが。
もうお父さんかまわんぞという時がある。そう言う様な心の状態と仰しゃっとるね。もうかまわんぞと知らんぞと、言う様な心の状態を言っておられるね、そうせろじゃない。そしてならそれで放っておくと言うのじゃなくて、そういう心で信心してやれとこういう、言うならば神様へ向かえとこう言うのです。あぁ大変難かしい事だと思いますねそれでも、自分の子供が具合がわるい、それこそ枕元に付き添うておってやりたいのが親心、お互いが様々持っておる問題、悩み又は心配ね。
そういうものもやはり放っておいてとこう言うのです。子供の病気と言うだけの事じゃないです。どんな心配事があってもそれを放っておけれる、いうならば心の状態、なかなか出けませんけれどもそこにやはり稽古があるのです。私が福岡でお商売させて頂いておる時分に、その時分の金でどうしても一万円のお金を持って帰らなければ、福岡からこっち椛目の方へ帰れない事があった。もう神様にも一生懸命お願いをする、お参りをして帰って帰ってまたお参り、まぁいうならばお百度踏む様にしてような気持ちで。
長浜町から荒戸の福岡教会にお参りさせて頂いた。で私始め参った時に今日はいわゆる私が福岡に帰る時には、あちらの親先生は善導寺善導寺と仰しゃつた。今日は善導寺に帰るような日だね、と親先生も言うて下さり又お届けしておったんです。それで私何辺も何辺もお参りするからやっぱ不審に思っておられる、早よ行きゃよかとこれと思いなさったじゃないかとこう思う。ところが、ははぁ何か帰られん事情があると言う風に思われたのでしょうか。
ある教会の御用を言われます、「大坪さんこれこれこの事をしてやってくれんか」とこう言われる、その時に私の腹が決まったです。それをしょるといよいよ遅うなる訳ですけれども、それでその御用をさせて頂いてそして、あのう今はあそこはどうなっておるか知りませんけれども、福岡の教会から電車通りのちょつと手前に、また西公園の方へこう行く横の道がある十字路になっとります。そこの所へ来ました時にちょうど、その十字路の所でパッタリ会ったのがもうそうですね。
これはもう二十年も前の話ですから、北京に私が行って十年、十何年振りでしょうか、にその椛目に生野さんという自転車屋さんがありますが、そこの弟息子の方が私と年は一つ違いですけども、福岡で何か商売をしている、大変都合がよいそうなっている話は聞いておった。向こうの方から自転車でやって来る、その生野君とパッタリ会ったんです。もうそれこそびっくりしましてね、ほりゃまぁそのうちょうどようここで会うたもんだねと言うわけです。
まぁとにかく私はこの当仁町におるからま、ちょつと寄んなさいという、いいや実は今日は椛目の方にどうでも早う帰らんなん用件があってしとるから、まぁそげなこつ言わんでんちよっとその寄んなさいとこう言う、そのどうしてそげんうろたえて帰らなんの、ち言うて言うけん、実は今日は金を一万円ばっかり、まだ今からつくらなんならん、そしてその椛目の方では、それ私が帰るのを待ってるから急いで帰らなきゃ、そんなら尚更ちょいと寄らんのとこう言う訳です。
それからもう当仁町はすぐそばですから寄りました。自転車の後ろにこの位ばかり弁当箱ごたっとが、こういいつけちゃりましたもん、昔の時分のあれは百円札でしょうかね、一万円ち言うたらちょうど一万弁当箱ぐらいにあるんです。私は大坪君あんたが話を聞いちから私はびっくりしたち、今日思いがけない所で一万円集金して帰りよる所じゃつた。こりゃ違わんそれこそあんたが信心する神様が貸せち言いござるとばいと言うて、まぁお茶一服頂いてすぐそれを私に貸してくれましたね。
その話を聞いて下さってなら今日の御理解も同んなじでしょうが、もうとても手がはずされる段じゃない何辺でんお参り。とにかく心を神様に向けるより他にない、まぁそれこそあっちこっち、もう勿論あちらこちらへ行っても金を作る場ももうなか、その時分はございませんでした。借りに行くという所はもう借りてしもとるから行けませんでしたけれどもですね、何回となしお広前そして私の腹が決まったのが、今日皆さんに聞いて頂くですもうままよと言う心になったんですね。
私が朝からお届けをして、善導寺に今日は帰らなんならん事を知っておられる先生が、あんまり何回も参るから、ははぁこれは大坪さん何かがあるなぁとこう思われたに違いない。そこで先生が私に御用を言いつけなさった。御用は一時間位ですむ御用でしたけれども、それをさせて頂いて帰らして頂くその、あそこから十軒か十五軒かありましょうか教会から。出て来たその十字路でパッタリ会ったのが、それこそ二十年振りでしょうかね、二十年振りでしょうやっぱの、いうならしかも私のすぐ隣の隣におるその、まぁ大変仲のよい友達でしたから、とパッタリそこで会ったね。
しかも彼は私が必要である一万円を、もう思いもかけない所から集金して帰っておる途中にあった。しかもその人の家がその当仁町ですからあの傍です、まぁ寄せて頂いてまぁならそんなら急ぎよるなら又ゆっくりなら、なんしょうとお茶一服頂いてと言うてそれを借ってもうようやくあのう、一万円の金を持って間に合うて帰らせて頂く事がでけた。理屈は同じですねそういう時になら私の心の中に感じておるもの、頂くものどうも神様は間違いはないなぁと、ままよという心になってねと言う気になればおかげになる。
北野の深町さんという魚屋さんがおります。なかなかあっさりした竹を割ったような男ですが、あちらの嫁さんが初産でしたが、まぁ大変な難産でもうその親も子も難しかろう、ちゅうごと難しい難産でしたね。そんな時に私は丁度ここの御建築が始まる前に、高山さん所の近所に石を庭石にする石を、そのまとめてあるから見に来いと高山さんから言われて、私と誰かでしたがあの見に行こうとしょる所へ深町さんが参って来た。その時分な今のように自動車が沢山あるわけでもございませんから。
その時私があのうそのお届けをさせて頂いて「よしその事はお取次させて頂いた、今からあんたの車でそのう高山さん所まで行くばい」ち、それでもうびっくりとにかく早よ帰らなん、早よ御神米頂かせにゃと言うておる所へね。それでそして二三時間位かかりましたでしょう、高山さん所へ参りましてその近所に置いてある石を見て、まぁらせて頂いたんです、それから又すぐ帰らせて頂いたらもう、あいものあのお礼に出て来ました。もうそれこそあの医者もたまがるような。
今迄そういう難産であったのが、安産のおかげを頂いたと言うて御礼に出て来ました。ですからそういう稽古もやはり積んだ上にも積んでさして貰うと言う事がです、神様のいうなら御用さえしておれば、心を向けてさえおけばおかげになる、まぁ言うならここで手を放せとこんな事を手を放せるはずないのにですね。ままよという心になって手を放すこういう例は合楽では幾つもあります。善導寺に森光さんという小さい商売してる方がありましたが、もう七十幾つになるお爺さんがもう危篤の状態でお願いに来ました。
ちょうど椛目で井戸ざらいがあっとりました。当時。それで「森光さん井戸ざらいの御用ば頂いていきなさい」ち私は言いました。それでもそれこそびっくりしながらも一日井戸ざらいの御用をさして頂いてね、もう帰らせて頂いたらねもう帰らせて頂いたらそれこそ、医者がたまがるようにおかげを頂いておった。だからねそれがそのう真似とかではいけんようですね、その時に親先生が井戸ざらいをせよとか、さぁんたが車で石見に行くばいと言う時に決まる腹がおかげを頂くんです。
ドン腹がすわる腹がすわる、そこにおかげそういう稽古をこの四十八節では教えておられると思います。私昨夜昨日ちょつと十時ちょつと過ぎに早う出てきました。それから或る事を御礼申させて頂いとりましたら、もう昨日も研修の時に話した事でしたけれども、どうしてこう言う様なおかげになって来たであろうかと、それは最近合楽の信心が間口が広くなった、そして深くなったと言う様な意味の事を申しますよね。もうとにかく信心とは限りなく有り難くならせて頂く稽古なんです。
だから限りなく深く広く大きくならせて頂く稽古です。同じ有り難いと言うてもピンからキリまでです。その有り難いと言うその心の状態がね、その広さ深さがその人の信心の深さ広さだとこう思うんです。私は他に日本一と言うてのおかげ頂きたいと言うてもね、それこそ智恵もなからねば、力もないのですから出来ませんけれども、日本一有り難い私になろうと言う願いはもっとります。これならいうならその気になればです、誰でもなれるからと私知ってるからです。
有り難くなれると言う事はこれはね、頭が良いから悪いから健康だから不健康だからには関わりはないです。だから日本一有り難くならせて頂きたい、私になろうとこう思わしてもらうんです。そしてその内容を思わせて頂く時にです、もう本当に夢にも思わないこういう事までが有り難いんだ、こういう事までが有り難いと御礼を申し上げねばならない事だと分かった時にです、も限りがないです。
昨日はいつも私は十分か十五分位しか、あのう御礼申しませんけども、もう昨日ばっかりはその事に気付かせて頂いて、御礼申さしてもら、いよったらもう限りがきりがなかった、神様の前で。それこそあの夢にも思わなかったようなおかげとは、こう言う事であろうかと、自分の心の中に思うた。こういう事までが有り難いという事になってきたんです。しかも限りがないんです。今朝からも私その事を思わせて頂いて、御礼を申させて頂いておりました。
もう限りがない有り難さね、底がない程の有り難さと、自分で思わせて頂いとりましたらね、いよいよ限りない有り難さと言うのは、死ぬる時も有り難い死ぬる時もこの有り難さがあれば、いうなら最高の有り難さだという意味の事を頂きました。そしたらそう頂いたら「ははぁ死ぬる事もこの有り難さでいけれるなぁ」と、いやぁまだ分からんです死ぬかまだ分からんけれども、そういう気がしきりに今朝からさして頂いとります。もう一切が有り難いの対照にならざるものはない。
そんなら死ぬる事も、お国替えをさして頂くという事も有り難いんだと、ギリギリ分かった時にいよいよもってその、有り難さはその深さは又は広さは、もう限りないものに繋がるおかげになって来るという事でございます。そういういうなら有り難くならせて頂くその稽古というてもですね、それは神様の働きを信じ又は神様の働きの中には、氏子可愛いという一念だけしかないと分からせて頂く信心ね、分かっちゃおったけれども、こんなにまで広く有り難いものだという事を、ここ二三日感じさせて頂いておるね。
その有り難さがまぁだ向こうに有り難い、という心の状態はあるぞとそれをギリギリなら自分がね、お国替えのおかげを頂くというか、お国替えのお知らせを頂くというか、もう今日は自分がこの世あの世の堺の日だと言うても、その日が有り難うて有り難うてという、心の状態になるやらまぁあだよく分からないけれども、なった時こそ本当のいうならば有り難いんだとね。ま結局有り難いのギリギリの処でしようけれども、勿論これを厳密に見ていよいよの本当なものにしていかなければなりませんけれどもね。
その過程においてです、ただ何十年信心を頂いとりますから、理屈が分かりましたからとね言うだけでは有り難くなれません。いうならばいよいよ何かという時に、うろたえねばならない時にはだからおかげにならんのです。そこでなら日々をです小きざみに一日のうちにでもですね、何時もいうならドン腹を据えた信心というかね、子供が病気の時だけじゃない、いよいよ今日も金がギリギリ出来んという時だけではない、何時もがねこの「ままよ」という心。
親先生が、今日あんたの自動車でどこまで行くばいと言ゃ、とても私は今日はそげな段ではありません、もう家内が死ぬか生きるかち言うごたる時ですけん、今日は帰らしてもらいますと言うてもよい訳なんだけれども。そこん処で腹を決めた。お父さんがもう難しかろうと言うてお届けに来ておるのにね、井戸ざらいしていけと御用頂いていけと、そん時に腹が決まったね。そういういうなら信心の稽古も、まぁいうならいさぎよいそうした信心の稽古もさせて頂いて。
初めて成程神様が間違いない働きを示して下さるんだなぁ、こういう心の状態になればおかげが頂けるなという事を二回、三回じゃないこれを日々です、そういう心の状態で信心の稽古をさせて頂く、四十八節というのは始終広がりに広がる、私はそういう意味に今日は頂いて頂きたいと思う。何時もおかげのチヤンス、何時もいうならお徳を頂く日々であらなければならない。
それには何時も神様へお任せしきった信心と言うか、度胸をすえた信心というかその度胸がです。いよいよ身につく時にもうそこには度胸とか、いさぎよいとかという事はない、もうただ有り難いと言ういうなら有り難しという心がも、広う深うねいうなら有り難くならせて頂くという事につながっていくと思うんです。めざす処はそこなんですね。死んでも有り難いんだという、死ぬる時にも有り難いと御礼が言えれる心。
教祖金光大神様がお国替えの時にね、それこそ「あぁ心安し」という一言を残されておかくれになった、と言う事でございますけれども。そういう心の状態を私共が目指して行くのですからね信心はね。いよいよ心にかけ通しにかけ続けて、どんな場合であっても腹がたったりイライラしたりね、いわゆる「ままよ」というなら、もう放っておくような心で神様へ向こうてやれと、そんな心で神にすがってやれおかげになると、神さまはここに断言して教えておられる訳ですね。
どうぞ。